毎日がゴミの日

はきだめ

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人生って単純じゃなくて。

いや、そんなのみんなわかってんだ、火を見るよりも明らかだもんな。だから楽しいと思った直後に苦しかったりして、山あり谷ありなんだよな。

 

 

"ここまでわたしはひどい目にあったから、今度は幸せになる番よね"

 

 

そう考えられたらどれだけ楽だろう。

なぜ目の前に広がる幸せを、私は、いいや、私たちは素直に受け取ることができないのだろう。

 

 

どうして、目の前にある幸せのチャンスを、疑ってしまうのだろう。

 

 

石橋を叩いて渡る、という。

慎重にせねば、時には取り返しの付かんことにもなりかねん。

そんなことは百も承知だ。

 

 

でもいつまでもコツコツ石橋を叩いていたって、それは決して幸せには近づいちゃいない。むしろ遠ざかってる時だってある。

 

幸せは待ってくれないのよ。

幸せは、きっと特急券持ってる。いや、もうプライベートジェットかな。そりゃ幸福様ですからね、毎日がファーストクラスですよ。

 

ファーストクラスに乗ってるような御曹司様がですよ?

いつまでも橋を叩いては「安全か否か」を判断してるだけの人間を待つわけがないでしょ。

だってファーストクラス常連だもん。金持ちだもん。仮に橋が壊れたとしても秒でヘリやらフェリーやらが助けに来てくれる。金があるから何にも怖くない。人生、ノーリスク。

 

だからきっと幸せは思ってるはず。

「そんなに心配しなくても渡っちゃえばいいのに」

「そんなに心配なら他の道を探せばいいのに」

 

金持ちの言うことはちげえなあ〜〜!!!ノーリスクな人生を歩んでるだけあるぜ、って言いたいけど、きっとこれって的を射ている。百発百中。オリンピックアーチェリー金メダリストも冷や汗モノ。

 

 

私たちが幸せを感じられない時って、歩みを止めているとき。

幸せになりたいなら、何かしら動かなきゃダメ。

 

目の前にある壊れるか否かも不明な橋を、「え〜い渡ってしまえ!あとは幸福様がなんとかしてるやろワハハ」てな感じで渡れた人間はきっと幸せになれる。何か途中にあろうとも、最終的には「幸せ」と書かれたゴールにたどり着ける。おめでとう、君がNo.1だよ。

 

 

あとは、「この橋やべ〜から違う橋探したろ!」つって、ほかの道を探す人間。

その道中、山賊に殺されそうになるかもしれん。餓死しそうになるかもしれん。

それでもさっきと同じように、幸せなゴールがきっと存在する。

 

 

とにかく、歩みを止めたらダメなんだ。

その瞬間、幸せは遠ざかって、まるで自分がこの世で一番不幸かのような気さえしてくるのだと思う。

怪しげな幸せでも、ヒョイっと身を任せてしまう方がいいのかもしれない。

 

 

でも、私たちは考えすぎてしまう。

そんなわけないって。こんなの私に相応しくない、勿体無いって。こんなの罠だって。

 

 

 

考えるのも大切だとは思うけど、慎重になるのも大事だとは思うけど、本来、別に勢いで突っ走っても許されるはずだ。

だって私だけの人生だし、他からとやかく言われる筋合いなんてないし。

 

 

………なんて思うけど、それはそれで難しくて、やっぱり橋を叩いてしまいがちだから、これからはもう少しノリと勢いに任せて最高のスリルを体験していきたい。

人生はアトラクション!!!!

 

 

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幕開けに相応しく、ポジティブな内容を書いてやろうかと思ったけど、あいにく私はそんなにポジティブじゃなくて、むしろネガティブに全属性を振り切った人間なので、まあ普通にネガティブな内容で開幕することとなる。

 

 

 

本当の自分ってなぁに?とかいう、知るかボケの一言で片付けられる質問を、あの頃の輝かしい僕たち私たちは、道徳だの国語だのの授業で死ぬほど投げかけられた。知るかボケ。

括弧付きの「わたし」とか、アイデンティティがどうとか、もううんざり。知るかボケ。

生きてる私が私だし、誰にも決められてたまるかよ、とかなんとか、当時の私は思っていた。

そう思うと、昔の私は自信に満ち溢れていたのだなあと、少し羨ましくなるけど。

 

 

しかしあの時にしっかりと考えなかったツケが、今になって襲ってきた。

本当の自分がわからなくなってきた。23にもなって悩む問題じゃねえことくらい、このちっぽけでど〜〜しようもない頭でも痛いほどにわかってんだけど、悩み事はそう簡単には消えてくれない。

 

皆の前でわっと目立って笑われて勢いがすごい、って言われるのが私なのか。

静かにまじめに仕事に取り組むのが私なのか。

1人が大好きで、誰に話しかけられようとも絶対に口を開かないのが私なのか。

大好きな人と一緒にいる時に、自分でもびっくりするくらい甘ったるい態度を出すのが私なのか。

 

もうわけわからん。

知るかボケ、で済ませたいんだけど、生憎この年齢になるとそうもいかないみたいで、私の中の赤ペン先生が「答えよ」とカチカチ赤ペンを鳴らしながらジリジリと迫ってくる。

 

どれも私だよ、当たり前なんだよ。

「俺は実は人格が何人もいるんだぜ」とかいう多重人格者でもない。ちゃんと全部私。意識あるし。全部私が覚えてる。

 

それでも、疑わずにいられない。

明るさの度合いが違うとかなら、「そりゃあ性格のボリューム調整くらいするわよね」で済むわよ。知るかボケで解決、赤ペン先生にもさっさと帰ってもらうわよ。

違うんだよ、もう。180度くるりくるりと変わるの。万華鏡。山の天気。すぐ変わるし変わりようが半端ない。自分でもびっくりする。

そんなだから、配属先のとある人に「被ってる猫が取れる日を楽しみにしています」とか言われちゃう。被ってねーよ。なんも被ってねえ。こちとら丸腰じゃ。

 

もうわからん。本気でわからん。

多分ちょっとしたら「もうみんなまとめて私!うるせえ!知るかボケ!悩む必要ねーよ!」っつって丸投げするフラグが立ってるわけだけど。

どれも私って言われると、「そうですね」と純度100%の同意を示すことは不可能だ。一つくらい嘘が、私のプライドが織り成した幻の私が、存在している気がしてならんのだ。

 

それが気持ち悪くてならん。

なんで自分のことなのに、わからんことがあるのか。

だって私だよ?あの言動もその言動も、全て私の仕業。

それなのに、どうして疑わねばならんのか。

 

生きるのが下手だから。

自分を信じてやることができない、自己肯定感最底辺の女だから。

きっとそうに違いない。だから色んな面を持った自分でさえ、魅力と捉えるんでなく、疑いの目を向けるんだ。

なあ、そうなんだろう?

やっぱり私の敵は自己肯定感なんだろう?

 

 

 

 

 

こうやって今思ってることを吐き出したとて、明日明後日の私は、この考えに純度100%の同意を向けるかと言われると、きっと答えはノーだし、寧ろ何考えてたか忘れている。

私がそういう奴ってことだけは、完全に信じられる。あぁ、皮肉なことよ。